『SPA!』で復活した「ゴーマニズム宣言」を憂う
はてなブログでは自動的に、「見出し」を「目次」に整頓してくれる機能がありますので、試験的に置いてみますね。
……ただし、「続きを見る」で折り畳まれているトップページからは、アクセスできないようです。この個別記事だけ表示するなら、目次機能が働くのですが。
ともあれ、では本題(メチャクチャ長いです)。
帰ってきたゴーマニズム宣言
小林よしのり氏の三番目のヒット作『ゴーマニズム宣言』が連載開始されたのは、『週刊SPA!』1992年1月22日号から。
その後、1995年8月2日号において、オウム真理教関連の事件での編集部(当時の編集長?)との意見の決定的差異が生まれ、連載を自ら終了。
『SAPIO』に移籍、『新・ゴーマニズム宣言』を開始しました。
……それから、23年の時を経て。
『週刊SPA!4/10・17 ゴー宣合併特大号』にて、大々的に『ゴーマニズム宣言』が復活した時は、自分も目を丸くしました。
この大事件について、小林氏はこのようにコメントされています。
「『SPA!』で復活する『ゴーマニズム宣言』は、あくまでも楽しく、おかしく、元気よく、そして深い話も、軽い話も書いていくつもりだ」
……では、復活を遂げた『ゴーマニズム宣言』は、何が変わったのでしょうか?
90年代どとーに動き、今尚渦巻いている時代の波に、乗れているのでしょうか?
以下、ひたすら長文にてお送りします。
お時間のある際に、ご覧くださいませ。
ゴーマニズム宣言は、「娯楽性」をも持った「漫画」である必要がある
『週刊SPA!』5月22日号(5月15日発売)に掲載された『ゴーマニズム宣言』第5章「女人禁制は伝統ではない」で、氏はこう主張されました。
「バカバカしい」
「そもそも女人禁制なんて伝統じゃないよ。」
「『女人禁制』は伝統ではなく、『因習』だ。」
「さっさとやめればいい。」
その後、日本の歴史所に「相撲」が記された最古の例で、「女相撲」が行われていたと主張。
「相撲の女人禁制はたかだか明治に作られたものにすぎない。」
そして、こちらの論文を紹介し、漫画で解説を行っています。
「女相撲は古代からあったのに、文明開化によって、これは外国人に見せられないということになり、その後付けの理屈として、土俵は神聖なものであり、女性は不浄だから土俵に上がれないという『ニセ伝統』が捏造されてしまった。」
「『文明化』が逆に女性蔑視の感覚を強化してしまったのだ。」
「女人禁制はたかが明治以降に作られたものにすぎず、長い日本の歴史からみれば、全く伝統の名には値しない。」
しかも明治という時代は、世界中が帝国主義の真っ只中で、日本も富国強兵で軍国主義に向かって行かざるを得ず、男尊女卑の思想が歴史上、特に強烈になっていた。
たまたまそんな時代の勢いで生まれた「女人禁制」を、伝統と思ったら大間違いだ!
そこから、お馴染みの「女性天皇・女性宮家」問題に、話を広げて。
「歴史を知らない安倍シンパのエセ保守が、明治以降の因習を伝統だと盲信している。」
「彼らは『明治アナクロ保守』なんだな。」
「男系盲信は伝統ではない!」
「女性差別以外の何ものでもないのだ!」
ごーまんかましてよかですか?
「そもそも日本には、永久不変の伝統なんてものはない。」
「永久不変の伝統とは『原理主義』であって、多神教の日本には生まれてはならないイデオロギーである。」
「女人禁制も男系絶対固執も、伝統ではない! 変えるべき因習はさっさと変えろ!!」
……相撲問題が、完全に女性宮家設立問題のダシにされてしまっています。
まぁ、それはそれとして。
……この話、「あくまでも楽しく、おかしく、元気よく」描かれていますか?
自分には、序盤にとりあえずのギャグを挟んだだけで、ただちゃんこ鍋をつつき合いながら、これまでの主張を繰り返しているだけにしか思えません。
これまでの章でも、移動中にこれまでの主張を話し合ったり、食事中にこれまでの主張を語り合ったりするだけで、「楽しく、おかしく、元気よく」主張しているようには見えません。
文章がメインで、漫画部分が「挿絵」化していないか? と自分は危惧しているのです。
これなら、わざわざ漫画化する必要はなく、文章で、あるいは対談形式で載せればいい話でしょう。
第5章を迎えながら、他メディアで展開されるシリーズやブログ等々と、何一つ変わっていない漫画になってしまっているのです。
……例えば、『ゴーマニズム宣言EXTRA1』収録の、第3章「食から滅びる日本人」(わしズムVol.3 平成14年12月3日号掲載)では。
当時、マクドナルドのハンバーガーが、100円もしなかったことについて。
1個、59円というものすごいやすさのハンバーガーが売られている。
「59円といったら、市販のパン1個の値段より安くないか?」
「ほとんどタダでばらマクドの世界ではないか。」
なぜ、そんなに安くできるのか?
そう疑問を呈し、当時の日本マクドナルド社長・藤田田氏が明かした秘密を引用しました。
インターネットで全世界から牛肉、タマネギ、ポテトなどの価格を瞬時に調べて、一番安いところから大量に仕入れるというのである。
世界地で一番安い牛肉。
…それはどんな牛肉か想像したほうがいい。
この「世界地で一番安い牛肉」のコマでは、小林氏が「世界地で一番安い牛肉」を使って作られたハンバーガーが映されたパソコンのモニターを、はるか上から見下ろし、唖然としている表情が描かれています。
……言葉で全てを説明するのは難しいのですが。
とにかく、「世界地で一番安い牛肉」というインパクトを与える上では、この上なく「漫画」の威力を発揮しているのです。
「漫画家」である氏の主張をより正確に伝え、強烈な印象と説得力を読者に残す。
そのためには、『ゴーマニズム宣言』は「漫画」でなければならないのです。
niconico「小林よしのりチャンネル」の週刊webマガジン「小林よしのりライジング」や、月1回の生放送を、自分がチェックしていないのは、これが理由です。
自分は挿絵付き文章や談話ではなく、「漫画」で、氏の主張を読みたいのです。
無論「漫画」である以上、ただ強烈な主張をするだけではありません。
SPA!時代の『ゴーマニズム宣言』第6巻収録、第百十四章では。
わしだって特に独自なことを言っとるわけではない
ただ語り口がわかりやすく面白いだけである
むろん この「面白い」ってのがなかなか人にできない偉大な価値ではあるのだがな
これは、全てのゴーマニズム宣言シリーズに言えることです。
『おぼっちゃまくん』がパチンコ化された際も、『ゴーマニズム宣言NEO2』第9章(『SAPIO』2009年6月24日号掲載)にて。
『おぼっちゃまくん』は『ゴー宣』の統制下に置かれない。
『おぼっちゃまくん』はひたすら娯楽のためだけの漫画である。
いや『ゴー宣』だって娯楽作の要素はあるから、パチンコになってもいいとあえて言っておく!
と、あくまで「娯楽作」な漫画であることを捨てていない、と主張されています。
……余談ですが、おぼっちゃまくんパチンコ化について、自分は否定的立場にありません。
いや、むしろもっと『おぼっちゃまくん』らしく、「玉の一発一発が高級真珠」くらい原作をリスペクトして欲しい、『カイジ』の「沼」(※1玉4,000円)を超える十倍の価値を持った、よーしゃなくリッチなパチンコとして――
話が逸れました。
2006年3月6日に発売された『目の玉日記』でも、氏の人生観と共に愉快な闘病記が描かれ、「これ"は"面白い」と氏と思想を違えた人々からも好評を受けました。
何故、それを、SPA!に帰ってきた今、描かないのか?
過去を省みる謙虚さが失われたゴーマニズム
さて、氏が取り上げた、相撲の女人禁制問題。
昔からゴー宣に詳しい、細かい描写から小さい文字までどこまでも読み込んでいた読者なら、覚えているかたがいらっしゃるかもしれません。
『新・ゴーマニズム宣言9』(2000年10月20日第一刷発行)収録、第113章「ナショナリズムを自覚せよ!」の欄外ページでの、とあるコメントです。
太田知事はすもうの最大の魅力である"伝統"を破壊することをやめろ! バカ政治家・辻元と同じと思われるぞ。"伝統"も時代に合わせて変えるべきなどと言うのなら、マゲもマワシもやめて、スポーツ刈りと、ジーパンでやりゃいいじゃないか! そしたら絶対すもうは滅亡するぞ! くだらんパフォーマンスで名を売るな、政治家のやるべきことをしろ!
この事件については、先にゴー宣でも紹介された、吉崎祥司氏・稲野一彦氏の論文でも紹介されています。
「相撲における女人禁制が注目され始めたのは、昭和53年(1978年)からと思われる。」と、相撲と女人禁制の歴史を挙げる中で。
平成12年(2000年)全国で初めて女性知事となった太田房江も、大阪府知事賞を手渡したいと日本相撲協会に申し入れたが、同様に拒否された。
こう書かれています。
……もっとも、欄外コメントが書かれたのは2000年のこと。18年も前の話です。これだけなら、ただの揚げ足取りです。
『本家ゴーマニズム宣言』第14話「商売のために描いているが、何か?」(『WiLL』2010年8月号掲載)で、氏はゴー宣の思想性についてこう主張されています。
「小林よしのりは以前と言ってることが違う点が、こんなにいっぱいあるんだぞ。」
「だから信用してはいけない。」
「小林よしのりは商売のために描いているんだ。」
「馬鹿丸出し! わしは昔サヨクだった。だが『戦争論』で明確に転向してしまった。」
過去の『ゴー宣』を見れば、わしの思想の変化が歴然とわかる。
言ってることが違ってる箇所もわかるように残している。
企画本の出版のために、過去の作品を改めて使う時は、修正することもあるし、注をつけて、そのまま出すこともある。
だが、基本的に、わしの思想遍歴は、初期の頃からの読者はみんな知っている。
わしについてきた読者は、一緒に成長してきたのだ。
言うことが変わっている点もあろう。わしは「思想」しているのだから!
今の男系固執主義者のように、未熟な段階での考えを「イデオロギー化」してはいない。
思想とイデオロギーは違う。
『ゴー宣』は思想の書である。
読者と共に成長していく。それがゴーマニズム宣言でした。
それは否定しません。
ですが、これが『SPA!』で23年振りに復活した、「新規読者」に対して言っていることだとしたら、話は変わってくるのです。
もう一度、件の欄外を引用しましょう。
太田知事はすもうの最大の魅力である"伝統"を破壊することをやめろ! バカ政治家・辻元と同じと思われるぞ。"伝統"も時代に合わせて変えるべきなどと言うのなら、マゲもマワシもやめて、スポーツ刈りと、ジーパンでやりゃいいじゃないか! そしたら絶対すもうは滅亡するぞ! くだらんパフォーマンスで名を売るな、政治家のやるべきことをしろ!
「伝統」とはっきり言っています。
太田氏の「くだらんパフォーマンス」を批判しているとも解釈できますが、それでも「伝統」という言葉を使ってしまっています。
「そもそも日本には、永久不変の伝統なんてものはない。」という発言と矛盾しています。
「未熟な段階での考え」であることは、間違いありません。
当然そこから、先の論文等の「正しい知識」に接し、「思想」して考えを改め、「成長」したのでしょう。
……ですが、これは小林氏「だけが」成長していることになります。
かつて先の欄外を読んだ読者は、この時点での小林氏が「未熟な段階での考え」で発言していたことを知りませんし、いつ成長したかも知りません。
読者を置いてけぼりにして、小林氏が成長しただけなのです*1。
そもそも件の論文からして、2008年。10年前に書かれたものです。
それをいつ、小林氏は読んだのでしょう?
いつ思考し、いつ考えを改め、いつ「伝統などない」という結論に至ったのでしょう?
自分には分かりません。教えて欲しいです。
そして問題なのは。
SPA!で再開されたゴーマニズム宣言を読むのは、「初期の頃からの読者」だけではないということです。
この思考の変遷を、SPA!の新規読者は、全く知らないということなのです。
以前と「言うことが変わっている」ことは、現時点でSPA!の新規読者は全く知らないのです。
お鍋を食べお酒を呑みながら、当然のことのように女人禁制はなかったと語る小林氏の姿に、以前と「言うことが変わっている」こと、「思想の変化」があったことは、どう考えても読み取れません。
SPA!の新規読者は、「最初から小林氏は『"伝統"などない』と相撲の、日本の本質を理解していた!」と解釈するしかないのです。
『週刊SPA!』はコンビニにも置いてある、比較的手に取りやすいメディアです。袋とじとかちょっと恥ずかしかったけど
そこで初めて小林氏の存在を知り、小林氏の思想に触れた。
そんな読者も、間違いなくいるはずです。
そういう読者に対する配慮を、小林氏はしているのでしょうか?
「そんなもんは知らん! わしの本全部買って読めば分かることだ!」と、思っているのかもしれません。
……事実自分も、学生時代は小林氏のゴー宣、および関連書籍を全部チェックし、共に成長しようと考えていた「読者」でした。
そして、「企画本の出版のために、過去の作品を改めて使う時は、修正することもあるし、注をつけて、そのまま出すこともある。」と仰っていた通り。
実に丁寧に、思考の進化について注釈をつけていたことも読んできました。
特に顕著なのは、幻冬舎文庫から平成11年8月25日に初版発行された、文庫版の『ゴーマニズム宣言4』収録の。
「第81章の前口上 文庫のための1999」および「第81章の裏ばなし 文庫のための描き下ろし1999」です。
文章ではなく、わざわざ「漫画」を新たに追加し、
「わしだって戦後民主主義社会の中で育ってきた男…」
「さいしょはうす甘~いサヨクだったのだ!」
「ウォーギルト(戦争有罪)の感覚を植え込まれたままの…」
「『謝罪しておけばいい』と安易に言ってしまうなまっちょろい男だった」
と、過去を反省。
これがサヨクだった頃の、1993年の作品だ! と強調したのです。
勿論、誰だって恥ずかしい過去があるだろうとおどけてみせ、エンターテイメント性を忘れることなく。
しまいには「裏ばなし」で、日本軍の戦争犯罪写真ってにせ写真ばっかりなのに、その中の有名なニセ写真を誰が描いたのかという話になって。
「ぼ…ぼくです」
「げっ…戦争冤罪研究センター所長トッキー時浦くんっ きっ! きみが…」
「ぼ…ぼくだってあの頃は何も知らなかったんだ! 慰安婦問題を調べてから真人間に生まれ変わったんだ――――ッ」
と、先の自分のことを棚に上げて、ただ一アシスタントとして仕事をしただけの時浦氏を責めるよしりん……
そして「早いとこサヨク卒業せにゃはずかしいぞ~~っ」とゴーマンかましてオチをつけるという、ギャグ漫画としても成り立った描き下ろし漫画を、文庫版に添えていたのです。
同じく何も知らなかった読者への自省を促しつつも、こんなに丁寧で、かつ娯楽性溢れた弁解。吹くしかありません。
この真摯な姿勢は、後々にも受け継がれています。
『ゴーマニズム宣言EXTRA』第3章「差別と自主規制との戦いから11年」(平成15年12月5日発行『わしズムVol.9』収録)において、『ゴーマニズム宣言 差別論スペシャル』(1995年10月25日初版、解放出版社発行)を反芻し。
「そしてわしが知らなかったこともあった。」
解放同盟のみなみあめん坊は「差別されて死んだ部落民は何万人といても、糾弾されて死んだ人間は一人もいない」と、わしに言ったものだが…
広島県の世羅高校の校長は、「日の丸・君が代」を卒業式にやろうとして糾弾され、自殺している。
これは、1999年の出来事で、『差別論スペシャル』出版以降の悲劇だが、わしが描くもっと以前から、そして以後も、教師が解同に糾弾されて自殺する事件は起こっているようだ。
「この件は当時、知らなかったことなので、読者に謝罪する。」
漫画の中で頭を下げる小林氏の姿に、「間違いは改め謝罪する」というポリシーは本物なのだと、感動したものでした。
……これと同じことを、何故今、読者たちにしなかったのでしょうか?
欄外に書かれた、些細なことかもしれませんが。
少なくともSPA!の新規読者にとっては間違いなく、全く知らない経緯があったことを、小林氏は描かないのでしょうか?
何せゴーマニズム宣言シリーズは、数があります。もう単行本が何十冊出たか数え切れません。
このたびSPA!で復活したことで興味を持った新規読者が、読み返すには膨大すぎます。あまりに長期連載すぎるのです。
だからこそ、あのようなフォローが必要だったのではないでしょうか?
たった一言、「わしも昔は勘違いしていたが」と添える、それだけで済むのに?
……かつて確かに存在し、今はなくなったものがある。元読者としては、信じたくはありません。
「男尊女卑」の思想は今も小林氏の中に残っている
さて、「男尊女卑」について。
今週の『ゴーマニズム宣言』第5章「女人禁制は伝統ではない」でも、欄外において。
男尊女卑は終わらせた方がいいが、セクハラは軽いものから重いものまでグラデーションがある。男の人柄やTPOもある。ヒステリックに避難していたら、ポリコレになって揺り戻しが来るから気をつけたほうがいい。
これは自身のブログでも主張されていて。
このように人や状況により、細かい判定が必要なはずだが、今は「セクハラ糾弾全体主義」が覆ってしまった。
こんなマスコミが戦前、軍部を讃美する言論一色にして、国民を破滅に導いたのである。
戦前を反省する良識ある国民なら、今こそマスコミに反旗を翻すべきである。
と、朝日新聞を含むメディアに警告し、読者に熟考を訴えかけています。
これについて自分は同意なのですが、本題とはやや違うので、紹介はここまでで留めます。
さて(2回目)、そこで自分は疑問に思います。
「男尊女卑」が伝統でないなら、小林氏自身も「男尊女卑」を終わらせたほうがいいのでは? と。
……初期のゴーマニズム宣言では、それはまぁ、仕方がないのですが。
思いっきり「わしは男尊女卑の男」と発言されています。
例えば。……90年代の頃の作品ですが。
『ゴーマニズム宣言5』収録「第94章 マスコミ業界人は無礼者」にて。
氏の二代目秘書さん*2がまだ未熟だった頃、あくまで「無礼」を「叱る」ために。
「新人のペーペーのくせしやがってもう緊張感を失くしやがって…」
「この無礼者が――っ!!」
人通りもかまわず怒ったもんだから こいつボロボロ涙流して謝ってやんの
二代目秘書さん
「すみません」
「反省します」
「二度とこんなことはしません」
しかし女 泣かすのって気持ちいいな――
つくづく…
男の泣く顔は気色ワルイが女は泣くまで説教すべきである
女は泣かすに限る!
女は流した涙の分だけ成長する
男は涙をこらえた回数分成長するのだ
女性宮家設立を主張し、女人禁制・男尊女卑を終わらせるべきと仰っている氏も、20年前はこうだった、としか言いようがありません。
そもそもの発端が、「無礼を正す」ためですし。
公共の場で、「人通りもかまわず怒った」のは、納得いきませんが……
勘違いしてほしくはないのですが。
小林氏は昔「男尊女卑」だったのに今更それを否定するのか、そう言いたいのではありません。
『ゴーマニズム宣言4』収録「第80章 わしはミスをする天才じゃい」においては。
今回はもう一つあるんだ わしのミスが…
わしが第七十六章で描いた屠殺場のビデオを見た感想に反論が寄せられた
首から血をふきながら吊り下げられて移動する牛
ノンノやらアンアンやら見て自分のクソすら見らんふりするねーちゃんだったらこれ見て卒倒か
「この台詞は撤回する」
「わしは女をナメてたすまん」
と、女性からの反論のお手紙を紹介し。
「まいりました」
「やっぱわしも現場を見てから描くべきだったのです」
「わしは男尊女卑の男ですがこの度は 全女性に頭を下げます」
真摯に謝罪されるのです。
……こうやって、「読者と共に成長して」ゴーマニズム宣言は、小林氏は思想を続け、進化を続けていたのです。
先に引用した『ゴーマニズム宣言EXTRA』第3章「差別と自主規制との戦いから11年」に至っても、この姿勢は変わっていない。
これが、新たな価値観を求め邁進していく、ゴーマニストとしてあるべき姿の一つでしょう。
さて(3回目)、『ゴーマニズム宣言』は「私人」としての小林氏の物語も描いていました。
『ゴーマニズム宣言4』収録「第83章 日本はジェラシッ子パークだ!」において。
それに わしを独身と思いこんどる女もいるようでわしと結婚しようと企んどるやつまでいる
「ばか! わしは結婚しとるわ!」
思想書でこんなこと言う必要ないと思っとったが過熱しすぎなので水をさす
「その上他にも複数 女はいるんじゃ!」
「うわはははははは」
わしの妻もわしの女たちもみんなそのへんの事情は承知でわしについてきとるんじゃ!
わしも女たちにも すでに小市民的な感覚はない
日々の平穏な生活を犠牲にしても目指したい獲得したいモノがあるからわしについてくる
つまりは、氏の配偶者様も女性たちも、全て納得済みで、氏と関係を共にしているということでしょう。
かつて、ダウンタウンの松本人志氏も似たようなことを仰っていましたし*3。
小林氏が「天才」と自称して宿命を受け入れ「漫画家」として活動している以上、嫌悪感はさほどありませんでした。
「私人」としての小林氏を評価しても仕方ないのですから。
楽しむべきは、氏の創った「漫画」なのですから。
……ですが……
今の小林氏は、どうでしょう?
2017年の第48回衆議院議員選挙において。
立憲民主党を、「漫画」を主軸とした氏の「作品」の中で、支持を表明するならいいのですが。
枝野幸男氏や辻元清美氏らの選挙演説に、本人が赴き、「応援演説」までするようになったのです。
「漫画家」は続けているものの、その一方で「弁士」となり、政治的主張を直接国民に訴えかけるようになったのです。
これはもう、遂に小林よしのり氏が「政治」の場に直接立った、としか言いようがありません。
そして、氏がブログで仰っていた通り。
子育てに影響がない個人主義で生きられる女性や、
フリーランスであり、芸術家タイプの女性なら、
恋愛したって様になるかもしれない。だが、中川昭一の地盤看板カバンを継いでいること、
政治家ならば「私」より「公」を優先すべきであること、
国民の税金で活動している身分であることなどを
考えれば、「政治家である前に女よ」という言動は
許されない。不埒である!
しかも路チュー写真を報道されたらすぐ、
一泊7万から8万円のVIP個室に入院なんて、
よく都合よく入院させてくれる病院があるのも
不思議だが、よくそんなカネがあるな?税金でチューして、税金で入院してるんじゃ
あるまいな?政治家は「公務」だから、「私」が制約されるのが
当然である。不倫路チュー議員は男女とも議員辞職しやがれ!
「私」が制約されるのが当然。全くその通りです。
ならば「弁士」もまた、「私」を制約する必要があるのではないでしょうか?
と、自分はひとまずの疑問を呈します。
しかし、小林氏は税金で食べているわけでもないし、税金で不倫していたわけでもありません。
応援演説も当然ノーギャラでしょうから、「私」を制約する必要性は生じません。
理屈では、そう結論付けられます。
ただし。
理屈だけで動けるのが、国民ではありません。
国民の前に立ち、応援演説を行う以上、その私的行為にも注目されてしまう。
弁士の過去の発言は勿論のこと、過去の私的行為と、その主張を比べてしまう……
それもまた「庶民の感覚」ではないでしょうか?
「ずっと気になっていたんですが、よしりん先生の奥様は、不倫を容認しているのですか?」
この発言で雷に打たれた小林氏は「不倫は許されん! 経験者は語るんじゃ。わしはもう老いたから終了じゃ」と泣きながら叫ぶ。また、「#MeToo」運動も取り上げるなど、かつての考えを修正していくさまを作品に落とし込んでいるのだ。
……今はもう不倫はされていないようです。過去も悔いたようです。
還暦を迎えても尚、いくらでも創作意欲が湧く。けれども私的な身体はついていかなかった、ということでしょう。
ですが、れっきとした「政治家」である山尾志桜里議員については、こちらのインタビューでこう語られています。
浜田:小林さんは、いわゆるリベラルの山尾志桜里議員を応援しています。それはなぜですか?
小林:わしが評価しているのは「国会議員としての能力があるかどうか」ということだけ。所属する党やプライベートなことはわしにとっては関係がない。どんなに品行方正な政治家でも仕事ができないやつは役に立たないからいらない。漫画家だって、ひとつも面白くないけど品行方正なんて、いらんでしょ、そんなやつ(笑)。
政治家は「『私』が制約されるのが当然」という主張から。
「国会議員としての能力があるかどうか」、という主張に変わっています。
これもまた「思想」して変わったのでしょうか?
その経緯は、先の『よしりん術説法』で語られた、とでもいうのでしょうか?
……この変遷を、「庶民の常識感覚」は受け入れられるのでしょうか?
最後に。
……正確な引用をすることもはばかられるのですが。
『よしりん術説法』では、こういう話も語られたそうです。
博多にいる実母の介護が必要になり。
けれども、小林氏は忙しく動けない。
なので、自身の奥様を博多へ送り、介護をさせていた。
その頃……小林氏は他の女性と不倫をしていた……
…………いや。
……その。
それは介護のプロに任せればよかった話ではないですか!?!?
ゴーマニズム宣言内で、初期から、氏の妻は足が悪いと書かれています。
だからこそ氏も、最大限に気を遣われていたはずです。
ならばこそ余計に、プロフェッショナルを評価し、読者もプロになれと訴えている氏なら。
介護のプロフェッショナルに任せるのが、筋ではないでしょうか?
……結局の所、「私的」な部分で、「男尊女卑」は小林氏の中に残っているのです。
親は子が、身内の女性が介護すべき、という凝り固まったアナクロニズムに陥っているのです。
さて(これで最後です)。
「庶民の常識感覚」は。
この事実を、どう受け止めるでしょうか?
小林氏を、どう評価するでしょうか?
……今も変わりゆく時代に、小林氏が付いていけているかどうか。
一抹どころではない不安を抱えながら、筆を置きます。
乱筆乱文かつ長文、大変失礼いたしました。